ぴーかん☀ノート

日々出合ったできごとで感じたことなどをつづります

”表現アートセラピー”を知っていますか?

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吉田エリさんという方の「はじめてのアートセラピーという本を読みました。
読むというより、写真がきれいで、最初は写真を眺めるような感じでした。
 
 
アートセラピーというと、描いた絵を分析して描いた本人の精神状態を知るものだと思っていました。でも吉田さんの本を見ると、アートセラピーにはもう一つ「表現アートセラピーというものがあるということなんですね。
 
 
こちらは、自分と向き合って自分のことを知り、自分の感覚を大切にして、自分を表現する過程を重視します。
 

表現するためのワーク

表現するための手法としては、「描くこと」「書くこと」「動くこと」「創ること」など、いろいろありますが、ワークとしても多様で、しかもいくつかを組み合わせたりもします。
 
たとえば、「描く」では、長い紙に端から落書きのような絵を描いていき、途中で踊り出したりします。そのあと描く絵は、その踊りの躍動感などが反映されるわけです。
自分の息遣いも絵のどこかに表れるかもしれません。
 
 
たとえばクレヨンを手元の置いて紙も用意し、目をつぶります。
それからクレヨンを手触りで選び、絵を描いていくわけです。
最後に、何色かもわからない状態で描いた絵を、少し離れたところにおいてぼんやり眺め、その絵にタイトルをつけてみたりします。
 
 
そういう絵を描き始めるときに大切なこと。
それは、心を自分の内側に向けること。
手の動くにまかせるということです。
 
 
自分と向き合うということは、自分の潜在意識に問いかけることにもなるので、いつも表層の意識で感じていることよりも深いところからの動きを感じることができるのですね。
 
そうすると、内面の深いところから、いつもは隠れているエネルギーが動き出します。
そこに至る過程が大事ということなのでしょう。
 

”問題の壺”とは?

ひとつ面白いワークがありました。
「問題の壺」といいます。
 
 
自分が抱えているトラブルや問題を壺に例えて表現するものです。
イメージ療法の一種らしいのですが、実際に壺の絵を描いて目の前に具体性を持たせるとイメージがハッキリするんですね。
 
 
やり方は、
大きめの画用紙とクレパスなどを用意し、リラックスして目を閉じます。
 
①今、自分が書けている問題を洗い出します。
問題が出てくるたびに、イメージした壺の中に入れます。
問題が出てくるだけ壺を用意します。
壺の大きさや色などをイメージします。
 
②全ての壺が出てきたら目を開け、順番に紙に描きだします。
紙の上に問題の数だけ壺を描き、紙が足りないときは何枚使っても構いません。
 
③壺の絵を前にして、それぞれの壺にイメージで入ってみます。
出たり入ったりしてみます。入りたくない壺があったらそのままに。
 
④全てのつぼに入ってみたら、次は壺に色を足したりして変化させてみます。
 
⑤絵をあらためて眺め、それぞれの問題と自分との距離や重さなどを感じてみます。
最後にイメージの中でツボを片付けます。

 

さて、問題に対する意識はどう変わったでしょうか?
問題に対するストレスに変化はありましたか?
 
 

最後に

表現アートセラピーでは、「描くこと」だけでなく、「書くこと」もあるんですね。
「書くこと」は、ひたすら心に浮かんだ言葉を書きつづけるだけ。
 
 
文章にならなくても、単語だけでもOK。詩でもかまわない。
なにしろ一定のスピード感でひたすら書きつづけるんです。
 
 
もし、「これ以上書けない」と思ったら、「これ以上書けない」と書いてみる。
自分の中が空っぽになるまで、時間を決めて(30分とか)書きつづけてみることに意味があります。
 
 
実際は愚痴などが続いても、それはそれなりに後がサッパリします笑
一度試してみてください。
 

八つ

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朝、目覚ましが鳴っている。
しばらく鳴るままにさせた女が、目覚ましを止める。
その手の甲が火傷のように荒れている。


彼女はやるせないような顔をしてベッドから起き、白いスリッパを履こうとするが、なぜか儀式のように片足ずつ爪先でスリッパの回りを軽くつつくように床に触れるのだ。
4ヶ所ずつ、両足で8ヶ所。


それからトイレへ。
トイレットペーパーも8回折る。
少しでも濡れてしまったりすると、新しく始めから折り直すのだ。


それからバスルームへ。
バスローブを脱ぎ捨てた彼女の背中がガラス越しに映る。
体を洗う手にだんだん力がこもり、息づかいとともに激しくなってくる。


そうなのだ。
彼女は、手も体も、あまりにも何度も強く洗いすぎたために、体中にやけどのような痕が残ってしまったのだ。

強迫性障害
広域恐怖症。

すでに2年間も外に出られない状態が続いている。
彼女の名前はサラ。

彼女が出ないと知りながら、一日に何度も電話を掛けてくる女性はカウンセラーか?


映画を見ているこちら側にサラの緊張感がそのまま伝わってくるように感じるのは、長回しのカメラワークのせいか。。


以前は家族と暮らしていたであろう家に、今は一人で暮らしている。
朝、登校前に娘が父親と一緒に訪れる。ドアの外。
でもサラはドアを開けることができない。
夫のやりきれないような声に、サラは自分を責めることしかできないでいる。


これはひとつの実験映画のようだ。
彼女がシャワーを使うときと、手を洗うときの水の音。
ベッドメイクをするときのシーツを擦る音。

音といったら、そんなところ。
バックに流れる音楽はない。

実験のような映画なのに、詩的なのだ。
映画の基調色がブルー。
そういえば、シーツの色もブルーだった。


これは、精神に障害のある人側からの映画ということもできる。
向こう側にいる人の気持ちをまるごと理解できなくとも、
その辛さと、切なさは伝わってくる。

養生について

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自身が十代後半の頃、自律神経失調症のような症状に悩まされた経験があったため、建康法についての情報などにかなり情熱を傾けたことがあります。
 
2年ほどで次第に体調は回復しましたが、そのきっかけとなったのは、体力がないのに体力を必要とするかなりハードなスポーツ(武道?)に集中したこと。つまり、荒療治ですね。
 
若い頃は無茶が効きますから、自分がその気になれば体のほうが後からついてくる、みたいな変な自信がありました。そして、その夢中に体を動かした時期も2年ほど。
 
それからは、もともとスポーツがすべて苦手だったこともあり、体を動かすことは「静的」な方向へ行くことになります。
 
年齢を重ねるとともに、最近とみに体が自分の思うように動かないことを感じるようになりました。
朝、ベッドで起きるときも、以前のように勢いでスパッと起きられることもなくなり、毎朝自分の腰と相談しながらソロリとベッドを抜け出すようになり、それがいつ頃から始まったのかもわからなくなりました。
 
どんな家電も十年も使えばガタが来ます。
人間の体も同じこと。少しずつ故障が起こってきて、部分的に手直しをするけれど、あるとき大きく崩れがやってくることになる。
 
自分の体をケアする、という言い方もあるけれど、
今日は、「養生」について、五木寛之氏の著書から感じたことを書いてみます。

 

“養生の実技”とは?

サブタイトルに、「つよいカラダでなく」とあります。
「養生の実技」とは、著者の体験と偏見による日常の、健康でいるための体のケア、のことなんですね。
 
 
著者は子供のころから病弱な体であったようです。
それでも若い頃は、病的な状態を回復しようといろいろな工夫をしたとのこと。
でも、今はそうはしない。
体が萎えた状態を受け入れることにした、ということなんですね。
 
体にかかっている負荷を取り払うことばかり考えるのではなく、のしかかってくる重圧を、しなって、萎えることで、体が切り抜けようとしているのだと考えたのです。
 
北国では、降り積もった雪の重さに太い枝はポキッと折れることがあるそう。でも、細くて弱い枝はしなって、曲がるので、ポキッと折れるようなことにはならないんですね。私たちの体や心もそうなのではないか、と著者は考えます。
 
曲がることのない枝は、どんなに強くとも折れる。毎年発表される3万人という自殺者の数は、折れた心の数だと五木氏は言います。体も同じこと。しなうこと、曲がること、屈することは、体にとって大事なことなんですね。生き延びるための技。
 
その技?のいくつかを書いてみます。
 
・冷たい水は飲まない。飲むときは口の中で噛んでから飲む。
 
・腰は曲げない。膝を曲げる。床のものを拾うときは、出す手と反対側の足を前に踏み出すか、同じ側の足を後ろに弾く。
 
・どうしても状態を曲げなければならないときは、腰を伸ばしたまま骨盤から曲げる。尻を後ろへ突き出すように。
 
・階段は脚で上がらずに、腰で上がる。上り下りともつま先はやや開く。
 
・中心は辺境に支えられる。心臓や脳を気遣うなら、手足の末端を大切に。指先、手のひら、足裏など。
 
・入浴は半身浴にする。体をあまり洗わないことが大事。
 
・線ぱてゃほどほどに。皮脂や歯垢にもそれなりの役目がある。
 
・食べ過ぎより、小食の方が良い。食事は二十代で腹十分。三十代で腹九分。四十代で腹八分。五十代で腹七分。六十代で腹六分。七十代で腹五分。八十代で腹四分。九十代からはカスミを食って生きればよい。

 

以下、全部で100項目続きます。
 
 

“うつ”も“不調”も生命の働き

人は、年とともに体の不調を訴えることが多くなるものです。
心と体は連動しているので、体の不調は心にも影響します。
 
若い頃の不調は、建康になるための取り組むべき課題のようなものでしたが(若い頃の私のように)、絶え間なくある不調は、闘うべき相手ではなく、共に生きる相棒のような存在になります。
 
全ての症状を敵の攻撃とみなしてはいけない、ということですね。
憎い敵と考えるのではなく、どうサポートして楽にしてやるかを考えること。
 
不調も病気も自分の一部、といったん受け入れるしかないのですね。
もちろん、痛みを軽減するためにできるだけのことをするのは当然ですが、
でも、自分でできることがなくなったときは、「天命」というものがあるのではないか、と著者は言います。
 
これはご自分の旅先での腰痛の経験から出てきた答えです。
 

最後に

著者が取材で訪れた旅先の宿で、腰痛に苦しんで床に就いた夜、天啓のように「天命」という言葉が閃いたとという事実が不思議で、でも腑に落ちたところでした。
 
この場合、取材をどれ一つとしてキャンセルするわけにはいかない、と自分にかけていたプレッシャーが腰痛として現れたとも考えられます。
 
なので、「他力」の著者でもある五木氏が「天命」と受け止めたことで、体も納得したのではないでしょうか。自分の主張を受け止めてもらえたことで。
 
 

内なる英知につながる言霊メソッド「まなゆい」とは?

ひすいこたろう、菅野一勢、柳田厚志、お三方の「実践!世界一ふざけた夢の叶え方」を読んでいたら、ちょっと気になるページがありました。
 

それが、「内なる英知につながる言霊メソッ『まなゆい』」という章。
これは、ひすいさんのページです。
 
もともとスピ系のものに興味があるということもあるのですが、今まで聞いたことのないフレーズなのが気になりました。
 

モヤモヤを突き抜けると「やりたいこと」がわかる

ひすいさんは、「『使命』とは、自分の夢が誰かの喜びにつながっているかどうか」と考えているようです。
1つの円の中に2つの円を描き、三重の層にします。
一番外側がモヤモヤした感情の層、1つ内側が「自分の夢や喜び」、そして円の中心に「使命」を置きます。
 
あなたは、「使命」ということを考えたことがありますか?
「使命」って、「義務」や「責任」などとはレベルの違う響きがありますよね。
と同時に、日常で使うにはちょっと重い言葉かなと思います。
 
でも、もし自分に「使命」というものがあって、それをはっきり感じることができたら、「生き方」が変わる気がします。「生きがい」につながりますね。
 
で、どうやったら一番外側のモヤモヤの部分を晴らして、中心の「核」の部分にたどり着くことができるのか?
 

まなゆい(愛結)は宇宙から来たメソッド?

“まなゆい”は、ひすいさんの友人である小玉泰子さんが宇宙から受け取ったものだとのことです。
 
することはとてもシンプル。ちょっとだけ“ホ・オポノポノ”に似ているかな?
使う言葉は4つだけ。
「受け入れ」「認め」「ゆるし」「愛しています」という言霊を使います。
ふつうは一人でやりますが、二人でやる方法もあります。これはこれでかなり強力かも。
 
たとえば、なにかザワザワと嫌な気持ち(マイナスな気持ち)になったら、心の中でその気持ちをつぶやき、続いて「~と思った自分を受け入れ、認め、ゆるし、愛しています」と言います。それだけです。
 
『私は、○○○と思った自分を受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。』
といった感じで続けます。
○○○の部分は、自分のマイナスな感情を言葉にしたものを入れます。
 
ひすいさんが例に上げたのは、
 
①私は、「片付けができない自分ってなさけない」と思った自分を受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。
 
②私は、「満員電車はイヤだ」と思った自分を受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

  

上記のようにスタートすると、自分の心の変化で次から次に言いたいことが出てきます。そうしたら、また同じようにその感情を言葉にして、
 
『私は、○○○と思った自分を受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。』と、何度でも言葉にして、どんな自分もOKしてあげるのです。
○○○の中は長文でも全然OKです!
 
 
マイナスな感情を抱えた自分、少し自分を責める気持ちも後ろめたい気持ちもあると思うのです。でも、まなゆいの言霊でまるごとOK!と認めてあげると、こだわっていた気持ちがほどけてくるんですね。
 
本気でそういう気持ちにならなくても、まなゆいは言霊なので、発声しているだけでだんだん気持ちが変化していきます。スッキリするところまでやってもいいし、最初は1.2分でもOK。いつ中断しても大丈夫です。
最初は声に出した方が効果の出方が早いとか。
慣れてきたらつぶやきだけでも十分です。
 

“まなゆい”をすることで何が変わるの?

“まなゆい”の言葉は受容の言葉。
どんな感情も、まず受容することで変化(癒し)が起こります。
なので、「まなゆいは、“自分を全肯定するツール”」のようなものかもしれませんね。
 
どんなモヤモヤな気持ちを言葉にしても、そのあとの言霊で全肯定されちゃったら、変化が起こらない方がおかしいですよね?
 
 
こちらに動画がありますので、実際に“まなゆい”による変化を見ていただけたらと思います。
 

 

まとめ

「実践!世界一ふざけた夢の叶え方」は、読み始めると止まらないアミューズメントパーク?のような成功法則の本です(!?)
 
この本の中から、また次を書きたくなるかもしれません。
 
 
 
 

自分だけの≪コレ!≫を見つけよう

「自分だけの≪コレ!≫を見つけよう」
魅力を最大限に引き出す7ステップ
ルーシー・ウィッティントン
 
 

 
自分に自信がない人というのは、自分にとっての≪コレ!≫がない人なのかもしれない、とこの本を読んでいて感じました。
 
何でもひと通り器用にこなせる人は、人からは重宝がられたりしますけど、それってその人の個性というのではないかもしれない。。
 
でも、すでに自分の≪コレ!≫を持っている人は、実は少ないかも知れませんね。
多くの人はまだ見つけることができていないような気がします。
 

あなたはすでに≪コレ!≫を持っている

著者のルーシーは、あなたはすでに≪コレ!≫を持っている、と言います。
これから新たに学ぶことではなく、すでに本人の中で熟成されているとも。
 
 
ルーシーは、人びとの、自分の≪コレ!≫を見つけることを仕事にしているマーケッターです。
 
「あなたの≪コレ!≫は、鼻先についている」とも。なのに、気が付かない人が多いのですね。
 
自分にとっての≪コレ!≫って、なんだと思いますか?
 
ルーシーはさらに言います。
 
「意識せず、自然にできる当たり前のことこそ、すべてあなたの≪コレ!≫であるはず」
 

基準は「ワクワクするかどうか!?」

例えば仕事を選ぶとき、どうしても理性で考えてしまうことが多いのではないでしょうか。
 
でも、「好き」を基本に選んでいるときであっても、絞り込んで≪コレ!≫と決めようとしても、なぜかワクワクしないこともあります。
 
あれ?なぜだろう?
だとすると、好きだからこれならいいだろう、という程度(頭で考えた)の「好き」だったのかもしれませんね。
このあたりは慎重になる必要がありそうです。
 
自分の≪コレ!≫を自分で探し出すのは簡単ではないのかも。
 

ジャムづくりとケーキづくりで考えてみる

自分が得意で上手にできることがあると、それが自分の≪コレ!≫だと思ってしまうことがある。
 
でも、ルーシーは、「それは、もしかしたらジャムに過ぎないのではないか」と言います。
 
「本当の≪コレ!≫は、ケーキをつくることのはずなのに、ジャムづくりばかりを追求してしまう。
 
目先の何かひとつにすっかり目を奪われてしまうと、ついつい人は自分の持つ知識や行動を通せば、≪コレ!≫をより大きく役立てることができるのだということを忘れてしまいがちになる。」

 

 

まとめ

もうひとつルーシーが示唆するのは、「楽なもの」であること。
 
「なぜなら、≪コレ!≫とは楽なものだから。あなたにとって楽なもの。あなたが楽だと感じるもの。あなた自身が楽になれるもの・・。
 
あなたが求めていた充足感は、≪コレ!≫をすることによって湧き起こってくるものなのだ。」

 

 

今のクラプトンにとって“レイラ”はどういう存在なんだろう?

“Song to Soul"とう音楽番組で“いとしのレイラ”を取り上げていました。
この番組は、ある1つのグループやミュージシャンを取り上げるというのではなく、1つの曲がメインテーマとなっています。
 
で、今回は“いとしのレイラ”というわけです。
 

“レイラ”ご本人が登場!

レイラが発表されたのは、1970年になるんですね。
翌1971年にジョージ・ハリスンはラビ・シャンカールに頼まれたことがきっかけでバングラデシュのコンサート”を開催しています。
 
このコンサートのときのクラプトンはほとんどコーラスに参加することもなく、ひたすらギターの演奏のみに集中していましたけど、リアルタイムで映画を見たときの感想では、友達に頼まれたので仕方なく、、、という印象でした。
ギターを弾けば目立ってしまうけど、できたら目立ちたくない、、という感じでしょうか。
 
この時点で、クラプトンは“レイラ”であるパティと一緒になっていたのかどうか定かではありませんが(ハッキリとした記憶なし)、今回の“Soul to Soul"では、現在のパティが登場して、当時のことを赤裸々に語っているのですね。
 

パティ語録

ジョージの奥さんだったころのパティは、きれいな脚の、西洋人にしてはほりの浅い、お人形さんのような印象しかなかったけれど、クラプトンと一緒になってからのパティは、ちょっと肉感的で女性としての魅力が増したように感じたことを覚えています。
 
“Soul to Soul"の番組の中でパティはインタビューをされています。
かなり突っ込んだ質問にも、冗談を交えながらも詳細に語っている姿が印象的です。
 
クラプトンとの最初の出会いを聞かれて、
「エリックとジンジャー・ベイカー、それにたぶんジミ・ヘンドリックスが、ブライアン・エプスタインの劇場で共演したとき。一緒に見に行ったら、ジョージがエリックのギターをとても気に入って、その夜ブライアンのアパートで開かれたアフター・パーティーに呼んだの。それが最初の出会い」
 
「そうやって友達になり、お互いの家を行き来しては、ギターを一緒に弾いて親しくなっていったの」
 
ミューズと呼ばれるのはくすぐったい感じがするわよね。ミューズ神話の結末はたいていが悲劇だわ。
誰かにインスピレーションを与えたら、あとは御用済み。
私はそんなふうに捨てられちゃったのかも」
 
そう言って、パティは笑っていました。
 
クラプトンがレイラの曲をテープで録って初めてパティに聞かせたとき、レイラが自分のことであると知ってパティは戸惑ったと言います。
「困ったわよ。だってわたしはまだジョージと結婚していたから」
 
でも彼女は言います。
「古い話。遠い昔のこと」
 
「私は鏡になった気分だわ。
彼らが私を見るときに見ていたのは、彼ら自身よ」
 
Q:エリックはあなたのどんな部分を見ていた?
「セクシーな部分ね」
 
Q:ジョージは?
「スピリチュアルな部分よ」
 

“写真家”パティ・ボイド

実は、パティは写真家としても活躍しているのですね。
現在日本で開催中。
 
 

“さいはてにて やさしい香りと待ちながら”を見て感じたこと

永作博美が好きで、映画やドラマの中に彼女の名前があるとある種の期待感で見てしまいます。彼女の表情と存在感に触れたくて、この映画も二度見てしまいました。

 

“さいはてにて” あらすじ

行方不明になって8年経った父親が遺したものは、能登のさいはてにある“船小屋”
吉田岬(永作博美)は東京から能登に越して船小屋を改築し、そこで住居兼焙煎珈琲のお店を始めることに。
店の名前は“ヨダカ珈琲”。
 
店の前には民宿があり、訳ありの若いシングルマザーと子供が二人住んでいる。
シングルマザーは山崎絵里子(佐々木希
民宿は彼女の祖母のものらしい。
でも、祖母は体調を崩して入院中。
 
敷きっぱなしの布団。雑然とした室内。
客が泊っている様子はない。
 
小学生の子供たちは給食費のことを母親に伝えることができない。
お金のことを伝えると、母親が生活のために自分たちを置いて金沢へ出かけてしまうから。
 
絵里子は、金沢のキャパクラで働いているらしい。
高校中退して子供を産んだ絵里子は、ほかに働くすべを知らない。
 
最初は子供をはさんでぎくしゃくしていた岬と絵里子の関係は、ある事件をきっかけに進展することに。
次第に、年齢も境遇も違う二人に友情めいたものが芽生えてくる。。
 

珈琲の香りと女性の自立

この映画は珈琲が主役かも知れないと思えるくらい、珈琲が重要な位置づけになっています。
 
岬が東京から能登にやってきて珈琲店を始めても違和感がないのは、すでに東京で同じ仕事をしてきていたという背景が感じられるし、小柄な岬が重たいものを慣れた様子で運んだりする姿も、自然体で目を引きます。
 
あんなところでお店を始めても、と最初は感じた疑問も、パソコンは見られなかったけれど、ほとんど通販で全国に郵送しているんだということも後々わかってきて納得。
 
寡黙な岬と対照的な絵里子という女性も、最初はダメダメな母親だと思っていたら、子どもたちを深く愛し、子どもたちから愛されている存在だということが次第にわかってくるのです。
 
それこそ、ヨダカのオリジナルブレンドコーヒーのように、幾種類もの豆の味が口の中に広がって全身に行き渡るような満足感を味わえる映画です。
 
岬は最初から自立した女性として登場しますが、その彼女に足りないものが絵里子たち親子によってもたらされたような気がします。
そして、岬の人生に対する凛とした姿勢が絵里子にも影響を与え、自分にとって本当に大切なものを再認識させるきっかけになったのではないでしょうか。
 
ところで、この映画の中の佐々木希がとてもいい味を出しているんですね。
これは自分でも予想外で、彼女の女優としての可能性を見た思いがしました。
感情を込めすぎない、やりすぎない、自然体の演技が、最後のシーンで未来に続く道を感じさせます。
 
監督は台湾出身の女性監督:チアン・シウチュン
女性の監督、女優たちによる女性のための映画。
だけではない、今なにかに迷っている人にも、希望を与えてくれるきっかけになる映画かもしれませんね。